「愛情深いガイダンス」

シュリーラ ゴヴィンダ
マハーラージ

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「愛情深いガイダンス」

愛情深いガイダンス
1 クリシュナへの神聖な献身

クリシュナは神の最高人格です。ラサ、神聖な歓喜、には5種類あり、全てのラサがクリシュナの内に完全な形で存在しています。クリシュナの献身者たちは皆、彼だけへの献身に幸せを感じています。世界中には数多くの宗教観念があります。あるものはシャーンタ-ラサ(平和)を好み、他のものはダーシャ-ラサ(奉仕)、またはサッキャ-ラサ(友情)、ヴァートゥサリャ-ラサ(親の愛情)を好みます。しかし、マドゥラ-ラサ(神聖な配偶者の愛)はシュリー チャイターニャ マハープラブの系統にのみ最高の形で存在します。

例えば、キリストは自身を神の息子として紹介し、神格が父であることを示しました。これが最高の関係とされ、神の王国は天国であるとされています。これがキリストの一般の人々への説明でした。彼の観念とヴァイシュナヴァの観念はときどき似通っています。グル・マハーラージもキリスト教への賛美を表しました。しかし最高の目標はマドゥラ-ラサにあり、それはクリシュナを様々な方法で信仰してのみ可能です。そのような献身は、聖書やコーランなど、一般的な経典には説明されていません。それは「シュリーマド-バーガヴァタム」に書かれてあり、その栄光はチャイターニャ マハープラブによって歌われました。マードゥリャ-ラサ、神聖な甘露、を世界に広めたのは彼自身でした。この甘露に魅了されたソウルは、シュリー チャイターニャ マハープラブの蓮華の御足以外にはどこにも魅力を感じることができずに、主クリシュナを信仰し始めます。

クリシュナの領域はゴロカです。主の神聖な性質には、マードゥリャとオウダーリャがあります。マードゥリャでは、主は自身の甘露を永遠の仲間たちと楽しみます。しかしオウダーリャでは、純粋なソウルである献身者たちに、様々な方法で神聖な甘露を配分しています。

コーランには、コダーとバーンダーがあります。コダーは神、バーンダーは奉仕者という意味です。神とソウルとの関係がここにもあります。そして、キリストの系統では父と子としての関係が最高であるとされています。ソロモンの歌には、配偶者としての関係についてもぼんやりした言及があります。実は全ての宗教はブラフマロカ、絶対者の「区別のない」世界、に行き着きます。ブラフマロカ、ブラフマンの世界、の手前にはヴィラジャーという河がありますが、ブラフマロカの向こう側はヴァイクンタという神聖な世界です。私たちの献身生活はヴァイクンタロカで始まります。これがヴァイシュナヴィズムです。シャンカラーチャーリャの観念であるニリヴィセーシャまたはニラーカーラ、人格がなく、姿のない「神」は、ブラフマンの世界です。ヴァイシュナヴァの経典には、神は神聖な姿を持つとあります。

私たちには感じることはできませんが、太陽の内には多くの形があります。ジャングルを遠くから眺めたら、ただの塊にしか見えません。しかし中に入ってみれば、実に多くのものを観察することができます―鳥、獣、木、花など、全てがジャングル内で相互関係に従事しています。同じように、遠くから見て、人々は「神はそれそれである」とか、「神には姿がない」とか言います。自分自身の見方に応じて神を表現しています。しかし、とりわけ神の姿や神の領域について知ろうと努力すれば、私たちはヴァイクンタロカの観念に行き着きます。そこから5つのラサが現れ、クリシュナロカで頂点に達します。「シュリーマド-バーガヴァタム」に、クリシュナロカが最高の世界であるという確証があります。

ete chamsa-kalah pumsah
krsnas tu bhagavan svayam
indrari-vyakulam lokam
mrdayanti yuge yuge
(Srimad-Bhagavatam 1.3.28)

「主の降臨は、彼の絶対的部分か、それら部分の更なる部分かのどちらかである。全ての時代に、彼らは悪魔による邪魔を世界から取り除くために降臨する。しかし、神格の元の姿はクリシュナ、ナンダの息子である」

人が超越した目で何を見ようとも、全てのめでたい事物はクリシュナを起源にしています。この解釈は「シュリーマド-バーガヴァタム」に説明されています。最高人格は全てを持っています。彼には5種類のラサ、ムッキャ・ラサ、だけでなく、間接的なガウナ・ラサがあります。一切が彼の内にあり、一切が彼の内でめでたいのです。

シュリー チャイターニャ マハープラブは、私たちの超越した生の歓喜を配り広めるために現れました。そしてマハープラブの後には、多くの彼の支持者や仲間、パールシャダたちがこの世界に来ました。このようにシュリーラ バクティ ラッカク シュリーダル マハーラージを保護者として持ち、私たちは最も幸運です。ヴァイシュナヴァたちと共に、私たちはベストを尽くして彼に奉仕しようと努力しています。それが私たちの幸せです。世俗的な生活を離れ超越した生を求めて、世界中からこのシュリー ナバドウィープ ダームに献身者が集まるとき、私は大変幸せです。私たちはセーヴァー、神聖な献身、を実践しようと努めています。それだけが最高の目標をもたらすことができます。

この世俗的世界には、カルマ、ギャーナ、ヨガ、または活動、知識、瞑想などの手段があります。しかし、全ての手段が私たちを絶対者に導くことはできません。しかしながら、全ての手段がヴァクティ、献身、の道にいくらかは関連しています。そうでなければ、それらは中身を何も持たず、事実上の存在を持たないでしょう。「シュリーマド-バガヴァド ギーター」で主クリシュナは言います。

sarvvam karmmakhilam partha
jnane parisamapyate
(4.33)

「全ての活動は、最後には知識に達する」

tapasvibhyo 'dhuko yogi
jnanibhyo 'pi mato 'dhikah
karmmibhyas chadhiko yogi
tasmad yogi bhavarjjuna
yoginam api sarvvesam

mad gatenantaratmana
sraddhavan bhajate yo mam
sa me yuktatamo matah
(6.46-47)

「私はヨギーを苦行の実践者よりも勝り、ブラフマンの信仰者よりも勝り、世俗的従事者よりも勝るとみなす。だからアルジュナよ、ヨギーになりなさい」

「そして全てのヨギーの中で、私に全てを任せ、一心に私に奉仕する忠実な献身者が最高である」

このように、ジーヴァ-ソウルは全面的献身、アナニャ-バクティ、まで献身生活を前進することができます。彼は勝利者であり、サードゥ、グル、そしてヴァイシュナヴァの祝福によって、神の最高人格への献身に到ります。献身とは生きることです。全ての人がいつも何かをしています―考えたり、感じたり、望んだり。常に活動的であることがこの世界のジーヴァ-ソウルの性質です。しかし、セーヴァーと呼ばれる献身の道に沿って適切に機能すれば、彼は最高の利得者になります。ですから私たちはグルとヴァイシュナヴァの指導の下、スピリチュアル・ライフを維持しようと努めています。私たちのスピリチュアル・ライフはシュリー シュリー グル-ゴウラーンガ-ガーンダルヴァー-ゴヴィンダスンダルへの奉仕です。

私たちは生きるソウルであり、つまらない物質ではありません。私たちが学者ではなくても、関係ありません。心で伝えることができます。ハンガリーからある男の子が来ましたが、彼は私たちに話すことさえできませんでした。「何か食べたい」とさえ言えませんでした。それでも、問題なく―もちろん多少はありましたが僅かなものでした―4、5週間、私たちのところに楽しそうに泊まっていきました。このように、シュラッダー、または信頼が私たちを導いてくれるでしょう。

グル・マハーラージは24時間毎日、主への献身に従事するよう、いつも献身者たちに指示していました。そうすれば私たちは世俗世界を無視して、目的地に辿り着くことができます。スピリチュアル・ライフのために断食する人もいるかもしれません。確かにスピリチュアル・ライフを望むことは大変価値がありますが、スピリチュアルに前進するためにも私たちは自身の身体を維持する必要があります。最も安全な道は、シュリーラ ルーパ ゴスワーミの系統に従うことです。

anasaktasya visayan
yatharham upayunjatah
nirbandhah krsna-sambandhe
yuktam vairagyam uchyate
(Bhakti-rasamrta-sindhu: Purvva: 2.255)

「ユクタ-ヴァイラーギャとは、利害関係には無関心のまま、献身の実践に役立つ事物を受け入れる人の、その超然とした態度である。クリシュナとの関連が卓抜した要因である」

要旨は、世俗的事物には超然としていてもクリシュナに関する事物に熱心な人は、献身に役立たない事物は拒否しながらも、献身に役立つ事物は超然とした態度で受け入れるということです。彼の超然さは、全てを包含する超然さです。例えば、私たちはこの世界に食べ物なしで生きることはできません。しかしその食べ物は、クリシュナとマハープラブのプラサーダムであるべきです。

yajna-sistasinah santo
muchyante sarvva-kilbisaih
bhunjate te tv agham papa
ye pachanty atma-karanat
(Bhagavad-gita; 3.13)

自身のために料理する人たちは罪深いものを食べています。しかし神像のため、クリシュナのため、バガヴァーン、神、のために料理し、残りものを彼の慈悲として受け取る人たちは、正しく前進することができます。マーヤーに襲われることはありません。カリ、または罪の猛撃に襲われることはありません。

全ての人が何らかの良い性質を持っています。これは疑いようがありません。絶対的な目で見れば、ジーヴァ-ソウルに罪はありません。罪はマーイック、幻影の姿をしています。

ahankara-nivrttanam kesavo nahi duragah
ahankara-yutanam hi madhye parvvata-rasayah
(Brahma-Vaivartta-purana)

「ケーシャヴァ、クリシュナは、私心のない者と共にいる。しかし自分本位の者は、彼から遠く遠く離れている」

 「これは私のものだ」と考えるとき、それはアハンカーラと呼ばれています。「この子は私の息子だ。この人は私の父親だ。この家は私の家だ」―このような「これは私のものだ」という意識は、マーヤーと呼ばれています。そうした影が頭上を覆ってしまうと、私たちは太陽を見ることができません。空に雲が流れて来て、私たちの視界を遮ります。マーヤーとはそのようなものです。アハンカーラ、偽の自我が頭上を覆ってしまうと、私たちは神を見ることができません。しかし、神の光のおかげで私たちはマーヤーを見ることができ、ジーヴァ-ソウルの光のおかげで、私たちのアハンカーラを見ることができます。このように私たちはあらゆることを理解することができます。私たちの悟りはこのようにして訪れるでしょう。そしてこれこそが適切な道なのです。
愛情深いガイダンス
2 献身者の賛美

ときどきイシュタゴシュティーを開くことは必要です。イシュタゴシュティーとは、献身者たちが集まり様々な疑問について話し合うことを言います。これはまた、献身者の間にある困難を調和する機会でもあります。

シュリー チャイターニャ サーラスワト マスに加わって1、2年経った頃、私たちは定期的にイシュタゴシュティーを開いていました。昼食が午後1時には終わり、その後2時から3時まで、イシュタゴシュティーは1時間続きました。マスに泊まっている献身者たちは皆、一緒に座って参加しました。ときどきシュリーラ グル・マハーラージも仲間に加わり、彼特有の方法で私たちの相手をしてくれました。

一般的に、献身者とは神に完全に献身している人、と理解されています。しかしヴァイシュナヴィズムでは、真の献身者はシュリー グル-ヴァイシュナヴァに完全に献身している人だとみなしています。クリシュナ自身が言ったように、

ye me bhakti-janah partha,
ne me bhaktas cha te janah
mad bhaktanam cha ye bhaktas,
te me bhaktatama matah

「私に献身している人は真の私の献身者ではないが、私の献身者に献身した人は私の真の献身者だ」

イシュタゴシュティーによって、シュリーラ グル・マハーラージは献身者が互いを誉めあう機会を多く与えてくれました。ときどき2人の献身者がそれぞれ別の意見を持ってぶつかり合うこともあります。一人はある方向に行こうとし、もう一人は別の方向に行こうとし、それによって彼らの精神はぶつかり、互いをさげずみ合うこともあります。シュリーラ グル・マハーラージは両者を呼んで互いを誉めるように言い、2人を調和させました。「この献身者の良い性質を表現しなさい」このようにシュリーラ グル・マハーラージは、あら探しをせず、どのようにヴァイシュナヴァを誉めるか私たちに教えたのです。

シュリーラ グル・マハーラージは、「あなたは下水道の検査官ではない」という表現をよくしました。「あなたは探求者、クリシュナ意識の探求者だ。あなたの立場は下水道検査官ではない。アリは自分の目的のために穴を探す。どんな穴も探さずに、ヴァイシュナヴァたちの良い性質だけを見て、手本にしなさい」と彼はよく説明しました。

このようにシュリーラ グル・マハーラージはイシュタゴシュティーのクラスを開き、献身者たちが集まって互いを誉めることができるよう取り計らいました。それは献身者たちが質問をする機会でもありました。シュリーラ グル・マハーラージは献身者が互いの質問に答えるよう奨励しました。そうやって彼は私たちの精神を調整したのです。私たちは寛大でなければならず、謙虚でなければならず、他の献身者を尊敬せねばなりません。

「シュリー チャイターニャ-チャリタームリタ」を読めば、全てのシッダーンタを理解することができます。しかし、どのように私たちはシュリー ルーパ ゴスワーミーと他のゴスワーミーたちの系統を守ることができるでしょう? これはシュリーラ グル・マハーラージの本から容易に理解することができます。そこには多くの質問への答えがあります。

私はシュリーラ グル・マハーラージの全ての本を読む機会はありませんでしたが、それらの題名にとても満足しています。「迷える奉仕者の愛情深い捜索」という本の名前を聞くとき、私はすぐに「シュリー ブリハト-バーガヴァタームリタム」に描写されたクリシュナの遊戯を思い出します。「迷える奉仕者の愛情深い捜索」には、クリシュナが道に迷った奉仕者を抱擁しているとても素敵な絵があり、これがその題名の主題です。

愛だけが私たちに超越した幸せの富を与えることができますが、物質的観念にはその影のみがあり、それは悪いものです。その影の中に全ての起源を見つけることはできません。そのネガの世界では一切がネガティブであり、ポジの世界では一切がポジティブです。

この世俗的世界では、情婦の愛は誉められたものではありませんが、超越した世界ではその逆が真実です。楽しむ者はクリシュナ一人だけです。皆がクリシュナの楽しみのために材料の供給に従事し、そのためそこにある全ては喜びに満ち、めでたく、超越しています。

クリシュナは彼自身の満足のために愛情を持って捜索に従事します。ポジの世界では、愛情深い捜索はポジティブに執り行なわれます。クリシュナは楽しむ者ですが、奉仕者が失われたので、自分の楽しみに欠乏を感じます。彼は全てをもっていますが、道に迷った奉仕者に楽しみを与えたいのです。

彼は私たちに自由を与えましたが、私たちはそれを誤用し、そのためこの世俗世界に来て世俗的事物を楽しもうとしています。ですから、私たちもまた探しているのです。私たちは幸せを探していますが、幸せはここには見つからず、私たちは満たされずにいます。ここにいるある人は、「もし5ルピー持っていたら私は幸せだ」と感じます。そして5ルピーを得ると、「10ルピー持っていたらもっと幸せだ」それから、「100ルピーが必要だ。それで私は幸せになれる」同じように、私たちは自身のためにカナク、カーミニー、プラティシュター(富、楽しみ、名誉)を集めようとしていますが、いつも不満足に陥ります。

クリシュナは言います。

te tam bhukta svarga-lokam visalam
ksine punye martya-lokam visanti
(Bhagavad-gita: 9.21)

「素晴らしい、大規模な、極楽の幸せを楽しんだ後、天国の住人たちは敬虔な行為の消耗によって人間の世界に入る」

abrahma-bhuvanal lokah
punar avartino 'rjjuna
(Bhagavad-gita: 8.16)

「主ブラフマーの惑星から下、全ての惑星の住人は、繰り返される生と死に自然と服従する運命にある」

私たちはブラフマーンダ、世俗世界中をそのように動き回っています。しかしクリシュナは私たちを捜しています。「自由を誤用したあのソウルはどこだ?」彼は全てを見ていますが、邪魔はしません。彼が邪魔をしない唯一の理由は、私たち個々が望んで彼に献身することを欲しているからです。

誰かが幻影を渡りきって超越した献身の世界、とりわけマドゥラ-ラサの指導のもとにある超献身区域に入るとき、クリシュナはすぐにその献身者を抱擁します。「ああ、とても長い時を経てやっとあなたに会えたね。私への献身があなたの生の目標であると私には分かっている。そして今長い時を経て、あなたは家に帰ってきた。あなたがいつ帰って来るだろうと私はいつも考えていたんだ」クリシュナの性質はそのようなものです。

「シュリー チャイターニャ-チャリタームリタ」に、シュリー ゴパールジーがどのようにギリラージ ゴーヴァルダンに隠れ住み、マーダヴェンドラ プリーが近くを通ったときどうやって彼にミルクを与え、夢の中で彼に話したのか書かれています。「私はあなたを、あなたがここに来るときを待っている。私を連れ出して私への献身を準備しなさい。ここで私は大変な苦行を積まなければならなかった。冬には服がなく、夏には団扇がない。毎日誰も私に食べ物を与えに来なかった。私は断食しているが、毎日あなたが来て私を連れ出し、滋養を与えてくれる日を待っている」

om purnam adah purnam idam
purnat purnam udachyate
purnasya purnam adaya
purnam evavasisyate
(Sri Ishopanisad)

主は完全に満たされています。主は一切に満たされていますが、彼の欠乏は愛において見つかります。それは実際には欠乏ではありませんが、それが彼の遊戯、リーラーです。彼は欠乏を感じていて、彼の献身者が彼に奉仕するとき、クリシュナは喜んで受け取り、お返しにもっともっと献身する機会を与えます。しかし、献身者が自ら望んで彼に奉仕する時まで、クリシュナは彼の迷える奉仕者を待ちます。

クリシュナは喜び、歓喜、一切で満たされていますが、彼がやりたいのは彼の遊戯であり、そのためポジティブとネガティブの両方がなければなりません。そうでなければ彼は遊べません。ポジの世界にもある種のネガティブな要素があり、そうでなければ彼は遊べません。それが別れと呼ばれるものです。シュリーラ グル・マハーラージは今日ここに生きて存在していますが、私たちは彼の姿を見ることができません。このように、ネガティブに私たちはシュリーラ グル・マハーラージの存在を感じますが、それもまたポジティブなのです。ポジの世界では一切がポジティブですが、遊戯が起こるとき、ある種のネガティブも必要になります。その「ネガティブ」は、この世俗世界のネガティブとは異なります。高位のネガティブは常にポジティブを助けています。必要に応じてネガティブは現れ、それは別れと呼ばれています。

別れにおける結合が超越世界の最高の理想です。神の最高人格の遊戯のため、別れはより多くの歓喜をもたらします。

krsnamayi―krsna yara bhitare bahire
yanha yanha netra pade tanha krsna sphure
(Sri Chaitanya-charitamrta: Adi-lila, 4.85)

クリシュナが隠れるとき、彼の姿はいつもラーダーラーニーの前にあります。彼女はクリシュナなしではあり得ません。このように別れにおける結合が生の最高の目標です。結合が起こるとき、献身者は疑いなく喜びますが、彼らにはもっと喜びが要ります。それは別れを通してやって来ます。それはゴピーたちとの別れが100年続いたクリシュナ-リーラーに示されています。しかし、これは全て私たちの理解を越えています。そのような位置は想像することができず、想像しようとすることは良いことではありません。

ときどき、直接な交際を持つことは悪いことだとみなされます。ある日、ルーパ ゴスワーミー プラブはサナータン ゴスワーミーをスウィートライスなどを食べるよう招待しましたが、シュリーマティー ラーダーラーニーが材料を提供したと知ったサナータン ゴスワーミーは、とても残念がりました。「私たちは彼女を信仰したくて、もし彼女のためにほんの少しの奉仕もできれば、それは私たちの生の達成だと考える。しかしルーパの願いを聞いて、彼女のほうが私たちに奉仕しようとしているのだ」

高位のソウルはクリシュナを見たいとは思いません。ラグナート ダース ゴスワーミーは言いました。「クリシュナとどうしろと言うのだ? 私はラーダーラーニー、あなたに献身したい。もしあなたがその機会を与えてくれるなら、それが私の生の達成になるでしょう。しかしあなたへの献身なしには、私はクリシュナに直接に献身したくはない」

ゴウディーヤ-ヴァイシュナヴァたち、特にルーパーヌガ サムパラダーヤは、ミラバイを手本にはしません。なぜなら彼女はクリシュナと直接に関係していると示しているからです。そうではなく、「私たちはラーダーラーニーの従僕の従僕の従僕だ」と彼らは考えます。これが私たちの系統であり、このように私たちは超越した生の達成を得るでしょう。

真のヴァイシュナヴァたちがクリシュナの姿を目にするとき、彼らはそれを幻覚だと思って、それに満足しません。マハープラブ自身さえ、こう表現しました。

na prema-gandho 'sti darapi me harau
krandami saubhagya-bharam prakasitum
(Sri Chaitanya-charitamrta: Madhya-lila, 2.45)

彼はクリシュナから離れていることが我慢できず、泣きました。しかし泣いている間に彼は言いました。「私が持っている何もかもが、クリシュナには十分ではない。本当は、私はクリシュナへの愛をこれっぽっちも持っていない。どうして私はクリシュナのために泣いているのだ? ただ他の者たちへ見せ付けるためだ。しかし、それは本当の愛ではない。なぜならもし本当の愛だとしたら私は生きることができないだろうから。彼のために必ず死ぬだろう。しかし私は死んでいない」

ヴァイシュナヴァたちがクリシュナを見るとき、彼らは目にしているものは幻覚だと考えます。「私には資格がなさすぎる。私に彼を見るのは不可能だ。幻覚に違いない。こんなふうに彼を見たくない」

彼らはラーダーラーニーと過ごしているクリシュナを見たいと思っています。それがクリシュナの真の姿なのです。そこがクリシュナがこの上なく幸せな場所です。そしてそれが私たちの目的地です。

その理想は脇に置いておいて、私たちは多くの場所で彼の遊戯の中にクリシュナを見ることができます―ドヴァーラカー、マトゥラー、ハスティナプルなど。彼の遊戯のそれぞれの場所に彼は存在していますが、ゴウディーヤ-ヴァイシュナヴァたちはそこには特別の関係は持っていません。彼らはドヴァーラカーやハスティナプルに行くことさえないし、マトゥラーにさえ行きません。彼らはクリシュナが降臨した場所を見たいと望みません。

ルーパーヌガ サムパラダーヤのムードは、私たちの系統は大変微細であるということです。シュリーラ グル・マハーラージはこの点について大変慎重で厳しくありました。

このマスへの献身のために、私たちはインド中の様々な場所へ資金を集めたり人を惹きつけるために巡礼の旅に出掛け始めました。最初はプルショッタマ ダーム―プリー ダーム―でパリクラマーを始めました。私たちが作った一つ一つの宣伝用パンフレットは、ルーパーヌガ サムプラダーヤの系統に確実に沿うよう、シュリーラ グル・マハーラージのとても注意深い指導の下に構成されました。

後に私たちはバダリーカーシュラムに行きましたが、そこはナラ-ナーラーヤンの場所であり、ですからゴウディーヤ-ヴァイシュナヴァたちとのどんな関連性があるのでしょう? 直接的には何もありません。しかし、巡礼者たちは自動的にそのようなツアーに参加したがり、それによってマスを手伝うことになるので、私たちはそこに行きたいと思いました。そこで私はシュリーラ グル・マハーラージに尋ねました。「どうやって私たちがそこへ行って、私たちの系統との関連性を維持できるか、どうか教えてください」すると、シュリーラ グル・マハーラージは、バダリーカーシュラムより少し向こうにヴャーサデーヴの場所、彼の洞窟があると、関連性を示してくれました。「このマスへの献身のためにそこへ行きたいと望むなら、ゴウディーヤ-ヴァイシュナヴァの系統を壊してはいけない。パンフレットにはヴャーサデーヴの洞窟を示さなければいけない」彼はパンフレットにニチャーナンダ プラブの巡礼との関連性と、ヴェーダヴャーサとシュカデーヴ ゴスワーミーのアシュラムを目的として言及するように私に指示しました。

ドワーラカーへの巡礼ツアーを計画したとき、シュリーラ グル・マハーラージは、ドワーラカーに行くならクルクシェトラにも行かなければいけない、そうでなければ私たちのゴウディーヤ-サムプラダーヤの系統内で調和できないだろう、と言いました。

シュリーラ グル・マハーラージは、ルーパーヌガ サムプラダーヤの路線を外れて他のどんなサムプラダーヤの路線にも沿って行くことを決して許可しませんでした。私たちはルーパーヌガ サムプラダーヤを走っているので、自分たちの路線を外れて他の誰かのヴィジョンを見に行くことはありません。

ゴピーたちはクルクシェトラに行きました。しかし彼女たちがなぜそこに行ったのか、思い出さねばなりません。クリシュナからの極度な別れがある場所がクルクシェトラです。ヤーダヴァたちの王としてのクリシュナが、多くの妻たちと共にそこにいました。全員が美しく着飾っていました。ゴピーたちは大変貧しく、こう思いました。「クリシュナは私たちのクリシュナだわ。でもあの人たちが彼と楽しんでいる。私たちはこのクリシュナが欲しい。でも、今彼を目の前にしている、こんなふうにじゃないわ」

シュリーマティー ラーダーラーニーは感じます。「クリシュナが私たちの目の前にいて、彼は確かに私たちに会った。私は同じラーダーラーニーで、私たちの出会いは間違いではないわ。それは実際に起こったのよ。でも私は実際何の満足感も得てないわ」

ラーサ-リーラーもそこで起こりましたが、彼女は更にこう言います。「今ここで私たちはクリシュナに会って一緒に躍っている。でも私はとても欲求不満で、悲しいわ。どうしたら幸せな気持ちになれるかしら? もしこのクリシュナがヤムナー河の土手に行って昔のように私たちと一緒に遊んだら、そしたら私は幸福だわ」

これはシュリーラ バクティ シッダーンタ サラスワティー タークルとシュリーラ バクティヴェダンタ スワーミー マハーラージによってもより詳しく説教されましたが、シュリーラ サラスワティー タークルの後、シュリーラ グル・マハーラージが操舵手になり、舵をしっかり握りました。シュリーラ グル・マハーラージのゴッドブラザーたちは、このため皆彼との交際を求めてきました。シュリーラ グル・マハーラージがルーパーヌガ サムプラダーヤ全体の操コントロールしていたので、皆彼の下に来ました。彼はただコントロールしていただけでなく、皆を導いていました。シュリーラ グル・マハーラージは皆を助けようとしていました。

舵を握る者、操舵手はシュリーラ グル・マハーラージであって、彼はいつも金庫の鍵を守っていました。このように皆が彼を尊敬しました。これは彼のサマーディ マンディルのデザインの背景にある考えでもありました。彼は財宝を守護者です。ですから彼のサマーディ マンディルは宝庫のような印象を与えなければなりません。その理由で、全ての大きな大きな人物たち―皆―がシュリーラ グル・マハーラージを尊敬しました。彼は私たちのサムプラダーヤの指導者の立場を占める者として皆に認められました。

私たちが取りまとめたどのパリクラマーの案内パンフレットを読んでも―西インド、南インド、プルショッタマ ダーム、バダリーカーシュラムなど―、シュリーラ グル・マハーラージがどのようにそれぞれのツアーを私たちのサンプラダーヤの線に沿って調和させたかを知るでしょう。私たちはその路線に残るために全てを調和させねばなりません。その路線から外れてはならず、シュリーラ グル・マハーラージは慎重にその危険から私たちを護っていました。

ゴパ クマルは一つの場所から他の場所へと行きましたが、ヴラジャ ダームとクリシュナの抱擁に辿り着いて初めて彼は満足しました。クリシュナは言いました。「私はあなたをずっと待っていたよ。とても長い間ずっと待っていた。今私は満ち足りた」クリシュナと彼の献身者、二人とも気を失いました。それこそがクリシュナの心です。

ときどきドワーラカーのクリシュナの妻たちは、彼との交際を持つことができません。彼女たちは彼と一緒に眠り、話し、彼に給仕しますが、ときどき「本当のクリシュナは私たちのところにはいない。私たちが信仰しているのは、本当のクリシュナじゃない。私たちは彼の身体に給仕しているけれど、彼の思考はここにない。だから私たちが給仕しているのは完全なクリシュナじゃない」そのように彼女たちは表現します。

クリシュナのムードは、いつも得難い献身を探していることです。彼は簡単にやって来るものを受け取るのには熱心でありません。その性質は、物質世界にもネガティブに見られます。

実は私は経典を読む時間がありません。経典を読めば、本を通して誤った方に導かれてしまうに違いありませんが、精通した良いヴァイシュナヴァとの交際を得れば、その心配はありません。経典自体がクリシュナ、ヴャーサデーヴ、その他多くの者の忠告を示しています。「ヴァイシュナヴァとの良い交際を得て、彼らに献身しなさい」

本を読もうとすれば、誤った方に導かれてしまうに違いありません。そうでなければ、なぜマハープラブは「意味を知っているヴァイシュナヴァの目の前でシュリーマド-バーガヴァタムを読みなさい」と言ったのでしょう?

シュリーラ グル・マハーラージの良い献身者たちは、シュリー チャイターニャ サーラスワト マスの財産です。真の富とは献身者たちであり、私は持っている限りのもので、あなたたち皆に奉仕しようと努めています。私は本当にあなたたちとの交際が欲しいのです。あなたたちから私は超越した食べ物を受け取っています。あなたたちを見るとき、「私にはやるべき献身がある」と考えますが、一人でいることは誰にとっても、私にとってさえ、良いことではありません。疑いなく、私たちはいつも献身をしようと頑張っていますが、ときどき私たちは不安になり、それは辛い経験です。しかし献身者と一緒なら辛くはなく、希望に満ちた経験になり、幸せをもたらします。全ての人がリラクゼーションを欲しています。そして私のリラクゼーションは献身者と一緒にいることです。

シュリーラ グル・マハーラージは、サマーディ マンディル、「別れにおける結合の神殿」での毎日の英語でのクラスをとても喜んでいます。このサマーディ マンディルは見世物のためにここにあるのではなく、シュリーラ グル・マハーラージへの献身に使うためにあります。真の献身とはシュリーラ グル・マハーラージと彼の仲間を始めとしたヴァイシュナヴァたちを褒め称えることです。

彼の仲間や献身者たちを通してシュリーラ グル・マハーラージを賞賛するこのプログラムは、ここで毎日続いて行かねばなりません。このようにしてシュリーラ グル・マハーラージはより一層喜ぶことでしょう。
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3 安全地帯

質問:「シュリーマド バガヴァド-ギーター」の中で、ジーヴァ-ソウルはスピリチュアル世界にいるときは完全であるが、物質世界では堕ちる可能性があると言われています。ですから私の質問は、どうして堕ちることのないソウルが、彼の完全な性質を変化させて物質世界に堕ちるのか?

シュリーラ バクティ スンダル ゴヴィンダ デーヴ-ゴスワーミー マハーラージ:スピリチュアル世界と物質世界とがありますが、その間には中間地帯、X軸があります。ジーヴァ-シャクティは主の中間の力です。マーヤー-シャクティ、ジーヴァ-シャクティ、スヴァループ-シャクティとがあります。マーヤー-シャクティは物質世界の庭であり、スヴァループ-シャクティはスピリチュアル世界の庭ですが、ジーヴァ-ソウルたちは中間部分、ジーヴァ-シャクティから生まれ出ています。

もともとジーヴァ-ソウルたちは中間の力から生まれ、生まれついた性質から普通は光の方向を向いていて、スピリチュアル世界へと動いていきます。しかし少数のジーヴァ-ソウルは残念ながら世俗世界の方向を向いています。彼らはそれに魅了されていて―つまり私たちのことですが―そのパーセンテージはとても小さいものです。遥かに大きなパーセンテージがスピリチュアル世界に向かって行きます。

マーヤーの方を向いている者たちは、「私たちはソウルだ。私たちは光だけど、そこに暗闇があって、私たちはその暗い世界の主人だ」と感じています。それは彼らの不幸です。彼らはマーヤーに惹かれ、そちらに向かっています。ジーヴァ-ソウルたちは中間地帯から生み出され、彼らは大変ちっぽけです。そのため、ほとんどのものは光、スピリチュアル領域に惹きつけられそちらに行きますが、中にはマーヤーに魅了される者たちもいます。ここに来る者たちは比較的わずかですが、それでもそれは何千万を意味します。しかしスピリチュアル世界全体と比べればわずかです。

堕落したジーヴァ-ソウルたちは中間地帯からここに来ますが、他にも光の地帯から来る者たちがいて、しかし彼らは堕落してはいません。彼らの中にはサードゥ、グル、ヴァイシュナヴァ、バガヴァーン、そして多くのアヴァターラたちがいます。ジーヴァ-ソウルたちを光の世界へ連れて行くためにここに来ます。光の世界、スピリチュアル世界に行くものは誰でも、堕落したソウルとしてはこの世界に帰ってきませんが、ときどきジーヴァ-ソウルたちを助けるためにクリシュナの意志によって降臨します。超越世界で献身するものは誰でもここには戻って来ません。クリシュナの意志によってのみここに来ることもありますが、それは堕ちることではありません。また、ジャヤとヴィジャヤの例もあります。彼らはヴァイクンタの門番で、ここに降りてきましたが、それはクリシュナの意志によってでした。そして彼らはそこに帰って行きました。

スピリチュアル世界に住んでいる者、またはそこへ行くものは誰でもここには戻って来ません―yad gatva na nivartante.  そこに住むものは誰でも常にそこに住み、ジーヴァ-ソウルたちをこの世界から助けてスピリチュアル世界に連れて行くためにだけ、その世界から帰って来ます。この世界に住んでいる者たちは堕落したソウルですが、超越した世界に住んでいる者たちがここに堕落したソウルとして戻って来る可能性は全くありません。クリシュナの意志によってのみ帰って来ることがあるのです。そこでは一切がクリシュナの意志であり、罪でも何でも全てが彼の意志によって起きています。ここに住んでいる者はそこに行くことができ、一旦そこに行けば戻ることはありません。

完全なジーヴァ-ソウルたちが主の望みによってここに来るだけでなく、超越世界もここに来てここで遊ぶことが可能です。クリシュナと彼の身の周りのもの全体が世俗世界に降りて来てここで戯れますが、彼らの遊戯は超越世界の遊戯です。超越とは無限を意味します。超越世界は常に無限です。クリシュナはどこにでも行って何でもすることができるので、彼はこの世界に降りて来ることができます。また、彼はどんな場所も拡大したり縮小したりすることができ、あらゆることが可能です。それが超越の意味です。

世俗世界に住んでいてスピリチュアル世界への永住権を持たない者は誰でも、その世界に魅了されていても堕ちる可能性があります。マハーバガヴァタの段階までは、この世俗世界に再び堕ちる可能性があります。マハーバガヴァタも堕ちる可能性がありますが、超越世界からはそれは不可能です。超越世界がここに来てこの世界に惹きつけられているように見えるときも、それは実際には愛着ではありません。愛着のように見えるかもしれませんが、超越世界のものが世俗世界のものと交わる可能性はゼロです。

mayadhyaksena prakrtih
suyate sa-characharam
(Bhagavad-gita 9.10)

マーヤー、世俗世界、はいつも影のようです。しかし、X軸はどこにでもあり、そうでなければ光と影の両方が存在するのは不可能です。中間にはいつもX軸、タタシャ-シャクティ、があり、そこがクリシュナの意志によってジーヴァ-ソウルたちが生まれ出る場所です。クリシュナはジーヴァ-シャクティを見ています。

Tal-lingam Bhagavan Sambhur,  彼はジーヴァ-シャクティに視線を投げ掛けていて、そこでジーヴァ-シャクティはすぐさま活動を始めます。それは究極的にはクリシュナの光線ですが、実はそれはナーラーヤンの光線です。実際にはクリシュナはそうすることに興味を持っていません。むしろ彼は自分の身の周りのものと遊んでいて、世俗世界には興味を持っていません。彼が生み出しているものは超越していて、マーヤーとの関係はありません。しかしナーラーヤン、ヴィシュヌ、はいつも中間部分にいます。

スピリチュアル世界の上位部はクリシュナロカ、低位部はブラフマロカ、そして中間部分はヴィシュヌ、ナーラーヤン、と多くのアヴァターラたちの領域です。その地帯にはカーラノダカシャーイー ヴィシュヌ、ガルボダカシャーイー ヴィシュヌ、クシーロダカシャーイー ヴィシュヌ、プルシャーヴァターラたち、リーラーヴァターラたち、ユガーヴァターラたち、その他多くがいます。それぞれの世界が超越していて無限です。ヌリシンハデーヴが住む場所もまた超越世界であり無限ですが、私たちの子犬のような脳では想像することができません。それはアチンテャ-シャクティと呼ばれています。それはプラクリティを超えていて、私たちの思考を超えています。

クリシュナは彼の食べ物を口、手、足から同時に摂ることができます。そうなのです。世俗世界ではそれが可能であるとは考えられません。しかし超越世界では真実です。超越世界は無限です。クリシュナが住んでいる場所、そこが超越世界で無限であり、同様にラーマーチャンドラや他のクリシュナの化身についてもそうです。あらゆる場所が超越していますが、私たちはそのような事物を考えることができず、そのことをアチンテャと言います。全ての世界は無限ですが、私たちの子犬のような脳の中に納めることはできません。不可能です。しかし献身者は強い信仰を持っているため、これら全てを明確に理解できます。クリシュナが「これはロープだ」と言えばそれは確かにロープであり、しかしもしクリシュナが「これは蛇だ」と言えば、「うん、そうだ、それは蛇だ」と考えます。

今のところ私たちは超越した知識を持っていませんが、幻影が私たちを去るとき、クリシュナの恩恵によって全てを適切な方法で見ることができるでしょう。思考によって世界の反対側に行き、何が起こっているのか考えることはできますが、超越世界は頭上にあり、私たちの思考器官にはおよびません。もし私たちが超越世界を見ようとすれば、はっきり見るには近付きすぎていて、遠くからの方がより良く焦点が合うと発見するでしょう。新聞を近くに広げすぎると目は字面に焦点が合いませんが、適切な距離からならはっきりと読むことができます。

全てにおいて適切な調節は必要です。ヴリンダーヴァンで今この時どんな遊戯が起こっているのか見たいと思っても、私たちには見られません。朝も夕も、そこにある全てのことが超越した出来事です。私たちは始めにそこに行って、そこに入る許可を取って、それから全てを見ることができるでしょう。ハレー・クリシュナ・マハーマントラを罪を犯さずに唱えることで、私たちはあらゆることを日の光のように明確に見ることができるでしょう。そうしなければ、超越世界の無限の性質を理解することはできません。もしあなたがヒマラヤ山脈の全ての頂と世界中の全ての山頂から花輪を作って、それをクリシュナに捧げることができると思えるなら、そして、もしクモの巣からロープを作ってゾウを繋ぐことができると思うなら、その世界についていくらかのことを理解できるかもしれません。

ですから考えすぎることは必要ではありませんが、その代わり私たちは「ハレー クリシュナ」ときちんと唱えようと努めることに主に集中するべきです。これがそこに行くための私たちの主な経路であり、これが私たちの唯一の希望です。

愛情深いガイダンス
4 献身生活の実践

naham tisthami vaikunthe
yoginam hrdaye na cha
mad-bhaktah yatra gayanti
tatra tisthami narada
(Padma Purana)

主は言いました。「私はヴァイクンタには住まず、ヨギーたちの心にも住まないが、私の献身者たちが私の栄光を歌っているところに滞在する」ですからクリシュナは、彼の献身者によって彼の栄光が歌われているところならどこにでも見つかります。そのため私たちの生において大切なのは、献身者たちの交際が必要だということです。彼の献身者たちによって唱名をともなう定期的な献身プログラムがあるところには、どこにでも行くように努力するべきです。それはヴィッディ-マールガに含まれ、ヴィッディ、定期的な献身プログラム、に従えば、私たちの生は調整されるでしょう。

シュリーラ プラブパーダ サラスワティー タークルはこう説教しました。

matala harijana kirttana-range
pujana raga-patha gaurava-bhange

 これはここシュリー チャイターニャ サーラスワト マスのナト-マンディルの正面入り口の上に刻まれていて、後にその意味を説明する絵の浮き彫りがその上に飾られました。ゴウランガ-バンゲとは、規則や規制があることを意味します。自身はヴェーダのガイドライン内に生きながら、私たちは遠くからラーガ-パタ、自発的な愛情深い奉仕の道、を信仰します。

もし私たちがゴピーになったと考えるなら、それは実際の感情ではありません。しかしゴピーたちの奉仕者になりたいと考えるなら、それが本物です。そのためのプロセスはシュラヴァナムとキーリタナムです。私たちが完全な献身の世界に根を下ろしたとき、そこから私たちはサードゥの指導によって本当のバジャン・ライフを始めるでしょう。

質問:ではゴウラガ-バンゲの実際の意味は何ですか?

シュリーラ ゴヴィンダ マハーラージ:ゴウラヴァとはヴィッディを意味します。ナーラーヤンはゴウラヴァの神像です。しかしゴウラヴァ-バンゲとは経典の尊敬すべきガイドラインを意味し、その立場から私たちは常に遠くからラーガ-マールガを尊敬するべきです。ラーガ-マールガは大変崇高な世界です。なぜでしょう? その世界にはクリシュナとの愛情溢れる愛着だけがあるからです。それが愛情深い献身の世界です。

質問:この詩の中で、ゴウラガ-バンゲの参照は何ですか? どのようにその詩はヴィッディを言及しているのですか?

シュリーラ ゴヴィンダ マハーラージ:マータラ ハリジャナ キーリタナ-ランゲ、そして、プージャナ ラーガ-パタ ゴウラヴァ-バンゲ、これが私たちの生の目的地です。キーリタンが最初の段階であり、最後の段階です。キーリタナは私たちを最低基準から最高基準、ラーガ-マールガへと連れて行くことができます。私たちはキーリタンを通じて実践生活を始めます。
マハープラブは言いました。

yajnaih sankirttana-prayair
yajanti hi su-medhasah
(Srimad-Bhagavatam: 11.5.32)

ヤジャンティとはバジャンティ、ハレー・クリシュナ マハーマントラを唱え、サンキリタン運動の後に続くプロセスによってマハープラブを信仰することを意味します。

質問:この詩、マータラ ハリジャナ キーリタナ-ランゲ…は、私たちの最高の理想はラーガ-マールガで、それを頭上に掲げながら、私たちは遠くからそれを信仰するという意味だといつも思っていました。

シュリーラ ゴヴィンダ マハーラージ:正しい考え方は、それは私たちを超えている、と常に考えねばなりません。そうでなければサハジヤーの系統に堕ちるでしょう。誰かがゴピーであると言えば、それは完全なサハジヤーイズム、完全な人真似です。ゴピーがどのように見えるか私たちにはいくらかの考えがありますから、ある女性がゴピーのように見えると思ってもそれはサハジヤーイズムではありません。しかし私たちには実際にそれを口に出す権利はありません。さもなくば私たちはたちまち世俗世界に行くでしょう。

疑いなく誰かはそのように言う資格を持ちますが、私たちは自身がゴピーの名前を発する資格さえ持つとは考えないようにしましょう。「シュリーマド-バーガヴァタム」全体を通して、シュリーラ シュカデヴァ ゴスワーミーはシュリーマティー ラーダーラーニーの名前を一度たりとも言及しませんでした。なぜなら彼は自分の講演をサハジヤーイズムから護ろうとしたからです。マハーラージ パリークシットとの会談の間、もしシュカデヴァ ゴスワーミーがラーダーラーニーの名前と彼女の仲間に言及したとしたら適切に理解できなかったであろう人たちが多く席を共にしていました。

これらの主題を理解する適切な能力を持っていなければ、その人たちはたちまちサハジヤーイズムに陥るでしょう。そのような人たちを護るためにシュカデヴァ ゴスワーミーはシュリーマティー ラーダーラーニーとゴピーたち、ラリターデヴィーやヴィシャーカーなど、の名前を発しませんでした。彼女たちの身分についてシュリーラ バクティヴィノダ タークルは著書の中で示しました。「この詩はシュリーマティー ラーダーラーニーによって話された、こっちはラリターデヴィーによって…」こう述べることで彼は私たちにヒントを与えています。

ですから、私たちはラーガ-パタを遠くから信仰せねばならず、現在の私たちの義務はその身分の献身者たちに奉仕し、献身者たちと共にマハーマントラの集合的唱名に従事することです。これが私たちがクリシュナ意識の実践生活に向上するために安全で実際的なプロセスです。
愛情深いガイダンス
5 愛情

良い交際は必要であり、そこから愛情が育ちます。それなしでは高位の世界へ前進する適性を身に着けることはできません。まず交際を通して関係が始まり、それが築かれたとき愛情が生まれます。最初にグルとヴァイシュナヴァ、神の献身者、と関係を持つことが必要であり、それなしには愛情は手に入りません。

つまり、愛情の前にグルとヴァイシュナヴァに注目することが必要だと理解せねばなりません。そうすれば自然に向上するでしょう。Adau sraddha tatah sadhu-sango 'tho bhajana-kriya, tato 'nartha-nivrttih syat tato nistha.

愛情はニシュター、次にルチを通してやって来ます。神聖な関係はいつもサードゥ-サンガ、聖者、または神の純粋な献身者との交際、と密に繋がっていますが、その前にシュラッダー、信頼が必要です。信頼が強固なら、サードゥと関係を持つよう努めることができ、サードゥとの交際によって、献身をもって奉仕することを学び、悪から純化されながら愛情という高位の世界がもたらされるでしょう。しかし愛情の前にまず3、4段階を通ることが必要です。そうは言っても、ある人にはすぐさまもたらされるかもしれません―愛情は誰の内にもあり、原因なしに育つ可能性もあります。この世俗世界の中でさえ、初めて会ったその日に大変良い友達になる人々もときどきいます。互いを見た瞬間に、すぐさま愛情がやって来ます。同じように、スピリチュアルな関係においてもそれは起こり得ますが、その前にスクリティ、幸運、が背景で働かなければなりません。

スピリチュアル・ライフを実践するとき、サーダナと私たちが呼ぶものを行うとき、神聖な献身者たちとの交際を持つことが欠かせません。その交際を通して、自然と彼らに注目するようになり、切望が呼び起こされます。実に切望が愛情をもたらしますが、神性への真の切望を持つまでは、愛情は抑えられたままです。

純化の後、堅固さがもたらされ、それからルチ、神性への趣向がもたらされるでしょう。そしてルチから愛情深い関係が始まります。しかしこれら全ては神聖な献身者との交際を通して達成されます。そのような交際なしには、神聖な奉仕活動は不可能です。資質を持っていなければ、神聖な奉仕は成し遂げられないでしょう。資質を欠いたまま、「これは完璧だ。これは完璧だ」と考えながら、思考は手当たり次第にさまようでしょう。しかし私たちは幻影の環境に住んでいるので、それは真の奉仕ではありません。もちろん、幸運によってときどき正しいかもしれませんが、幻影的環境が私たちを誤った方に導くので、普通は正しい道には行きません。

Anor aniyan mahato mahiyan. ブラフマン、スピリット、は大変偉大であると言うなら、その偉大さは空のようなものです。空を越えて、私たちには何の偉大さも知りません。しかしそのような知識はそこでは通用しません。超越世界はこの知識とは完全に別で、それ以上のものです。ですから、普通私たちは間違った道を行くでしょう。適切な交際、サードゥ-サンガが必要なのはこのためです。

サードゥ-サンガには2種類あります。交際できるサードゥが誰もいないとき、神聖な本が私たちを助けてくれます。しかし良いサードゥとの交際を持つとき、彼の直接な指導の下、神聖な目標を達成することができるでしょう。

全ての人が愛情を感じるわけではありません。背景に幸運が働かねばなりません。強運によって、サードゥとの交際の後の3段階をすぐさま渡り切ることができるでしょう。しかし、これは大変特別な場合のみ可能です。私たちのグル・マハーラージは「愛情」という言葉を使いましたが、彼がその言葉を使った文脈を知ることが必要です。

愛情はどこでも可能です。低位の段階から高位の段階に向けてさえ、可能です。ある人が他の人たちに食べ物を与えたいと思う、それも愛情の一種です。彼自身はあまり食べたくなく、むしろ他の人に食べ物を与えることが喜びをもたらします。そのとき誰かがもっとたくさん食べれば、配給者の愛情はすぐさまその人に向けられます。もう一つの例えは、子供が生まれる前でさえ、母親の心の中で子への愛情が大きくなることです。

堅固な関係ができるとき愛情も根を張り、サードゥ-サンガを通してその関係は強くなるでしょう。誰もがあらゆるものと関係を持っていますが、感情はその関係によって現れます。人々は自分たちが親類同士だとは知らないかもしれませんが、生まれついての権利によって自動的に内なる関係があります。

ときどき私たちのグル・マハーラージはこう言います。「ダルマ-ブッディ、徳が高い態度、によって感覚を制御することは可能です。そのとき高位のものとの関係も、徳が高い態度を通してもたらされるでしょう」徳が高い態度を維持すれば、高位の存在への愛情が育つでしょう。

この薬は良いと知ってはいても、舌と感覚はそれを受け取りたくありません。しかし知性はそれ以上のものをもたらします。知性はこう言うでしょう。「この良いものを取れば、あなたの健康は良くなるだろう」それから、その苦い薬への愛情が私たちにもたらされます。このように適切な関係を持つように努めることができます。「マハーバーラタ」の中で、私たちが関係を持つことにあまり乗り気でないとき、徳が高い態度によってそれは築かれる、と教えられます。

その徳が高い態度は私たちの内に生きています。私たちは世俗世界、幻影的環境に住んでいるかもしれませんが、徳が高い態度は私たちを見捨てません。そうでなければ私たちはでたらめに生きることでしょう。でたらめに生きたくはありません。誰かが私とは逆方向に動いているとき、もしその人のためにいくらかの余地を残さなければ衝突が起こるでしょう。それが徳が高い態度です。

愛情が率直に表現されていないとき、私たちのヴィジョンを直すことが必要です。そうすればそれはもたらされます。ときどきシュリーラ グル・マハーラージの時代に、彼は自分の望みに応じて活動計画を主張しましたが、私たちは彼の論理を理解できませんでした。そしてもし私たちが反対すれば、彼も私たちの考えを理解できませんでした。しかしながら、私たちはグル・マハーラージの考えに従いました。徳が高い態度です。そして結果が来たとき私たちはこう思いました。「ああ! グル・マハーラージは私のためにこんなに良いことをしてくれた!」このようなことは何度も起こりました。

サードゥ-サンガ、私たちがそれに従うことができれば、実に多くの事物から救済されるでしょう。それは将来、大変良い結果をもたらすでしょう。しかし全てはシュラッダー、信頼に依ります。Adau sraddha, tatah sadhu-sanga. 最初に信頼、それから神聖な交際は私たちのものになります。シュラッダーの訳語は単に「信頼」以上のものです。それは実は「愛情深い」信頼なのです。

神聖な名前を唱えることもこれに似ています。私たちはハレ・クリシュナを唱えていますが、本当に唱名しているのでしょうか? それともただ完全に物質的音の振動を発しているだけでしょうか?

シュリーラ ルーパ ゴスワーミーはこれを大変わかりやすく説明しました。Atah Sri Krsna-namadi na bhaved grahyam indriyaih. 私たちはどのように唱名すべきでしょうか? Sevonmukhe hi jihvadau Svayam eva sphuraty adah. 彼は自身を啓示するでしょう。彼が私たちに喜ぶとき、こう感じることでしょう。「ここに私のダンスステージがある」私たちが適切にそのステージを用意すれば、彼は喜んで私たちの舌の上に踊りに来るでしょう。私たちの世俗的舌によって神聖な名前を掴むことは望めません。神聖な名前は超越的であり、私たちの世俗的感覚を使ってはそれを掴むことができません。